四季通り商店街

510sゴトーチョウキン「服を着替えるように、アクセサリーももっと気軽に選んでほしい」

510sゴトーチョウキン「服を着替えるように、アクセサリーももっと気軽に選んでほしい」

さまざまなジャンルの店舗が軒を連ねる四季通りで、金属製のアクセサリーや革製品を制作・販売しているゴトーチョウキンさん。彫金職人でもあるオーナーの後藤章友さんに、ものづくりや四季通りへの思いについてお話を伺いました。

ゴトーチョウキンさんの「はじまり」

後藤さんがこのお仕事を始めたきっかけを教えてください。

県外の大学を卒業後、上京して最初は医療機器を扱う会社に勤めていたのですが、どうしても物を作る仕事がしたかったので、1年ほど働いて退職しました。

作りたいものはいろいろあったのですが、もともと学生時代にバンドをしていて、インディアンジュエリーなどのアクセサリーも好きだったので、宝飾関連の会社に未経験で入りました。そこで3年ほど技術を学び、その後、スキルアップのために、別の宝飾関連の会社に入りました。

少し高級な宝飾品を扱う会社だったので、職人としてこれまでよりもさらに高い技術が求められました。そこで3年ほど技術を磨き、もともとシルバーアクセサリーなどカジュアルなものを作りたいなと思っていたので、20代後半に独立しました。

独立して最初のうちは店舗を構えず、「後藤彫金工芸」という屋号を置いて、自宅を工房として制作をしていました。当時はアクセサリーのほか、ボールペンなどについているキャラクターパーツを量産するためのワックスモデリング(※)もしていました。

※ワックス(ろう)を使って、パーツの原型をつくること

当時、夢にまで出てくるくらい、あるキャラクターの原型ばかり作っていたこともありましたね(笑)

また、東京にいたころは、今作っているものとは違い、スカルなどちょっとイカツイ感じのメンズ向けのアクセサリーも作っていて、それはお店に卸して販売してもらっていました。

独立されてからもしばらくは東京で活動されていたのですね。宮崎に戻られたきっかけは何だったのですか?

父親の看護がきっかけです。僕が30代後半くらいのときに父の病気がひどくなり、看護が必要になりました。仕事は少し減ってしまうけれど東京を離れても仕事自体はできますし、一時的に宮崎に戻ろうと思い、引き上げたんです。

その1年後くらいに父が亡くなったんですけど、看護でちょっと疲れて、東京へ戻りたくなくなってしまって。こっちでのんびり生活しようかなと思って、宮崎で服飾関連の会社に就職したんです。そこで2年ほど働きました。

以前から漠然と自分のお店を持ちたいと思っていたので、今のお店とは違う場所でとりあえず空き店舗を借りて、自分で全部改装してお店を始めたんです。それがお店を始めたきっかけですね。

そのときは趣味で革製品を作っていて、自分のお店でも販売していたのですが、それを福岡のテレビ局が取り上げてくださって、九州各地から問い合わせや注文がありました。ですので、そのときは革製品の制作のほうが結構忙しかったですね。革製品を目的に、お店に来られるお客さんも多かったです。

ゴトーチョウキンさんと「四季通り」

この四季通りにお店を構えたきっかけを教えてください。

前の店舗で少し営業したあと、自宅に工房があったため、そこで自宅ショップのような感じで商品を販売していました。その時期に、ある日、四季通りを歩いていたらたまたまこの場所が空いていて、なぜかピンときて、その場で書いてあった連絡先にすぐ電話して、「借ります!」って伝えていました(笑)

そうなんですね(笑)。何にピンときたのでしょうね?

何でしょうね(笑)。でもこの場所は昔からよく知っていたから。高校時代までは宮崎にいたので、若いころに四季通りにはよく来ていたんですよ。ここは昔、喫茶店があって、よく知っていたんです。懐かしくてなんかいいなと思っていて。それでここにお店を出すことにしました。

四季通りに学生時代の思い出がたくさんあるのですね。

そうですね。高校時代、学校帰りに喫茶店に寄って友達と話したり、そこに来ているお客さんにギターを教わったり、好きな音楽をかけてもらったりとか、そういうみんなが集まる場所があって。あんまりそこくらいしか知らないんですよね。当時「おしゃれなアクセサリーや服など売ってるところってここでしょ」って僕の中では思ってました。

大学進学を機に県外に出ているので、他はあまり思い浮かばないというか。他にもお店はあったのですが、おしゃれなお店やおもしろい喫茶店があったのは四季通りでした。

だからこの場所を見つけたときに、「ここでお店やらないといけないでしょ!」って何となく思ったんですよね。

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ジャンル:ショッピングのお店